Se connecterあれからどれくらい時間が経っただろう。
俺は死んだのか?
いや。あんな状況だ。死んでいないとおかしい。
息が苦しい。胸の上に何かが乗っている。
喉が詰まる。口の中が妙にしょっぱい。
「んぐっ――⁉」
何かが、さらに口の中へ押し込まれた。
硬い。しかもしょっぱい。
噛み切れない。飲み込めない。
「む、むぐっ……⁉」
慌てて目を開ける。
ぼやけた視界の向こうで、銀色の髪が揺れていた。
「……起きた」
ミリスだった。
何故か俺の胸の上に跨がった状態で、真顔のまま保存食を握っている。
「ちょ、待っ……おま、何して――ッ⁉」
「クラド、死にそうだったから」
「だからって、口に保存食を詰め込むなッ‼」
咳き込みながら身体を起こす。
途端に、全身に鈍い痛みが走った。
「っぁ……!」
肋が痛い。頭も割れそうだ。口の中は、保存食のせいでよく分からない。
それでも、生きている。
少なくとも、痛覚があるうちはまだ現世側だ。
「……よかった」
ミリスが小さく息を吐いた。
その顔を見て、ようやく理解した。
――俺たち、本当に生き残ったんだ。と。
ゆっくり後ろを振り返ると、グラン・モルドが目を見開いたまま倒れていた。
今にもまた動き出しそうな迫力がある。
額の赤い結晶も、もう光っていなかった。
「……マジかよ」
思わず声が漏れる。
倒したんだ。あの化け物を。
俺とミリス、たった二人で。
——なのに、まるで現実味が無かった。
勝ったというよりも、死に損ねた感覚の方が近い。
もしも、あと一歩でもズレていたら。
ミリスの力が限界を迎える方が先だったら。
多分今頃、俺達は揃って潰されていた。
「……ん」
不意に、ミリスが俺の袖を引っ張った。
「クラド。これ」
差し出されたのは、最初に採掘した
蒼白い結晶は、薄暗い洞窟の中でも静かに光を放っている。
「あ……」
そうだ。元々の目的は、これを持ち帰ることだった。
ただ――。恐る恐る結晶の方を向く。
他の
爆発だの何だので、洞窟中に破片が散っている。
「……やっちまったな」
思わず乾いた笑みが漏れた。
小粒になった今でも、ひと欠片で普通の一軒家と同等の価値がある。
それが今や、足の踏み場もないくらい転がっている。
しかもそのほとんどが、ガラス片みたいに砕け散っていた。
こんな傷だらけじゃ、まともな加工品にはならない。
商会の連中が見たら、その場で泡吹いて倒れそうだ。
仕方なかった。これしか方法が思いつかなかったのだから。
そう正当化しようにも、冷静に考えると頭がおかしい。
「……どうしよう、これ」
「ヴェルカ、絶対怒る」
彼女のことだ。笑いながら酒瓶を投げつけて来るだろう。
それか雇われの(というか買われた)身だ。一生タダ働きの終身奴隷コースか。
奴隷を買った俺が、今度は奴隷になるのか。
「……笑えねえ」
ミリスはそんな俺を見ながら、小さく首を傾げた。
「クラド、奴隷になるの?」
「なりたくねえよ……」
即答すると、ミリスがほんの少しだけ口元を緩めた。
そのまま俺たちは、揃って岸壁に背中を預けた。
もう立っている気力すら残っていなかった。
全身が痛い。特に頭が酷い。
【
頭蓋の内側を、鈍器でゆっくり掻き回されているようだ。
「……帰ったら、三日は寝よ」
「ミリスは、ご飯食べる」
「さっきまで保存食食ってたろうが」
「あれはノーカウント」
「なんだその理論は」
思わず笑いそうになった。
笑った瞬間に肋に激痛が走って、結局顔をしかめる羽目になったが。
それでも、ほんの少しだけ。生きて帰れる気がしていた。
グラン・モルドは動かない。
目的の
ボロボロだが、俺もミリスも生きている。
ならば後は、洞窟を出るだけだ。
と、その時だった。
――ゴゴゴゴゴゴ……!
腹の底を鳴らすような轟音が鳴り響いた。
「……えっ?」
直後、洞窟全体が大きく揺れた。
天井から、砂と小石が降り注ぐ。
嫌な音がした。岩盤が軋み、どこかで何かが崩れ落ちる音がする。
「お、おい……待て待て待て――」
冗談だろ? グラン・モルドとの戦いで、洞窟そのものが限界を迎えたのか?
視線の先で、大きな亀裂が壁を走る。
「ミリス、逃げるぞ!」
「……うん」
ミリスも壁に手をつきながら立ち上がろうとする。
だが次の瞬間。
――ズガァァァン‼
爆音と共に、俺たちが入ってきた坑道が崩れ落ちた。
土煙が一気に噴き上がる。
「……っ!」
言葉が止まる。
落ちてきた岩盤が、通路を完全に押し潰していた。
隙間すらない。逃げ道が消えた。
――いや、違う。
グラン・モルドが塞いでいた時点で、とっくに逃げ場なんて無かったんだ。
ただ、戦っている間は考えないようにしていただけで。
洞窟の揺れは止まらない。
むしろ、どんどん激しくなっていく。
天井に走った亀裂が蜘蛛の巣のように広がり、岩塊が次々と降り注いだ。
――ドゴォン!
すぐ横に巨岩が落下する。衝撃で地面が跳ねた。
「っ、ぐ……!」
膝が崩れる。もう脚に力が入らない。
無理矢理立ち上がった反動で、全身の痛みが一気にぶり返してきた。
ミリスもその場に座り込んでいる。
肩で息をしていた。
「クラド……出口、ない」
「……見りゃ分かる」
そう返した声に、自分でも驚くほど力が無かった。
視線を巡らせる。
崩れた岩壁。落ち続ける天井。塞がれた坑道。
どこにも道なんて無い。
逃げる場所が、本当に無かった。
また大きく揺れる。
頭上から、嫌な音が響いた。
もう長く持たない。
終わった。本気でそう思った、その時だった。
「アンタ達、なかなかやるじゃないの」
崩落音の向こうから、妙に呑気な女の声が響いた。
ミリスの声じゃあない。もっと軽薄で、とてもこの場所に似つかわしくない声音。
すると、瞬きをしたのとほぼ同時だった。
「しょうがねえから、力を貸してやるよ」
突如、天井から降りてきた影がニヤリと笑った。
赤い髪。見慣れた酒瓶。そして、呆れるほど場違いな笑み。
「ヴェルカさん……! どうして……!」
「言ったろ。助けないけど、力は貸すってさ」
軽口を叩きながら、ヴェルカは崩落した出口へ視線を向けた。
数十トンはありそうな岩盤が、完全に通路を塞いでいた。
なのに彼女は、困った様子すら見せない。
「ま、“
次の瞬間、ヴェルカが一歩踏み込んだ。
ふらついた足取り。酔っ払いのような、力の抜けた動き。
――それなのに。
岩盤に触れた瞬間、
「――破っ」
巨大な岩壁が派手に弾け飛んだ。
「……なんだよ……それ……」
「嘘……」
意味が分からない。
剣も魔法も使っていない。
ただ掌を押し当てただけだ。
ただそれだけで、岩盤そのものが砕け散った。
しかもヴェルカ本人は、軽く肩を回しているだけだった。
息一つ乱れていない。
まるで今の一撃が、軽いジャブ程度だったとでも言うように。
「ほら、ボサっとしてると今度こそ潰れるよ」
呆然とする間もなく、ヴェルカが俺の腕を乱暴に引っ張ってきた。
「うわっ――」
「ミリス。アンタも来な」
言いながらミリスの腕を引いて、俺たちを両脇に抱え込んだ。
ひょいっ、と。驚くくらい軽々しく。
「軽いなあお前ら。まるで干物だなぁ」
「誰が干物だ!」
「クラド、保存食いっぱい食べたのに」
「余計なお世話だ!」
そんな馬鹿みたいなやり取りをしている間にも、ヴェルカは瓦礫の中を駆け抜けていく。
後ろでは、グラン・モルドの亡骸ごと坑道が崩れ落ちていく。
轟音。土煙。崩壊。
その光景は、まるで洞窟そのものが、役目を終えて眠りにつくようだった。
*** 馬車に戻った頃には、もう夜になっていた。俺とミリスは荷台へ転がされ、そのままヴェルカ特製の薬を飲まされた。
「ッッッッにがァ⁉」
あまりの苦さに、思わず飛び起きる。
なんだこれ。薬っていうか、腐った雑草を煮詰めた汁じゃないか。
「良薬は口に苦し、ってね」
ヴェルカはケラケラ笑いながら酒を呷る。
絶対楽しんでやがる、コイツ。
隣ではミリスも無表情で固まっていた。
「……舌が死んだ」
「お前でもそういう顔するんだな……」
けれど、薬の効果自体は本物だった。
さっきまで肺を抉っていたような痛みが、少しずつ和らいでいく。
骨の軋みも、頭痛も、ほんの少しだけマシになっていた。
だからこそ。ようやく言いたいことが込み上げてくる。
「……いや待て」
俺はゆっくりヴェルカを指差した。
「なんであんな所に行かせたんだよ」
「死ぬかと思った」
ミリスも真顔で頷く。
「いやぁ、でも生きてるじゃない」
「結果論だろうが!」
思わず怒鳴る。
本当に死ぬところだったんだ。
ヴェルカはそんな俺達を見ながら、酒瓶を揺らした。
「じゃあ逆に聞くけどさ」
赤い瞳が、細められる。
「死地に飛び込んでみた感想は?」
「は?」
「だから感想だって。アンタ達、あの洞窟で何を見た?」
意味が分からなかった。
だが、ヴェルカは冗談を言っている顔じゃない。
俺は少しだけ考えてから、ゆっくり口を開く。
「……価値って、最初から決まってるモノじゃないのかもな」
ぽつりと呟く。
今までの俺は、ずっと値札で世界を見ていた。
高い物は凄い。安い物は価値がない。
それが当たり前だと思っていた。
でも違った。
ただの石ころでも、使い方次第で怪物を殺せる。
保存食だって、人を生かせる。
折りたたみシャベルですら、命を切り開ける。
だったら――。
「俺達も、同じだったんだな」
自然と、そんな言葉が零れていた。
「商会じゃ役立たず扱いで、ミリスなんてタダ同然だった」
苦笑が漏れる。
「なのに、今はこうして生き残ってる」
ミリスが静かにこちらを見る。
銀色の瞳が、少しだけ揺れていた。
「……値札なんて、当てにならないんだな」
その瞬間。ヴェルカが、小さく口元を吊り上げた。
「ふふぅん、なるほどねぇ」
ヴェルカは空になった酒瓶を置いて、肩を竦めた。
「そうさ。行商人ってのは、ただ物を見るだけの仕事じゃないんだよ」
「……?」
「人を見るのさ」
夜風が荷台を揺らす。
馬車の車輪が、静かな音を鳴らしながら街道を進んでいく。
「ガラクタ同然の品でも、“欲しい”って奴が現れた瞬間、宝になる。逆に、どれだけ高価なモンでも、誰も欲しがらなきゃただの置物だ」
「そんな曖昧な……」
「だから面白いんじゃあないか」
その横顔は、いつもの酔っ払いとは少し違って見えた。
「アンタらの戦い方だって、そうじゃあないの?」
「……は?」
今、なんて言った?
俺とミリスは互いに顔を見合わせ、一緒にヴェルカの方を向いた。
「いやあ、まさか本当に勝つとは思わなかったけど」
ヴェルカはぐいっと新しく開けた酒を呷り、あっけらかんと言い放った。
「……見てたのか?」
「見てたよ?」
「俺たちの戦いを?」
「うん」
軽い。あまりにも軽すぎる。
「いやいやいやいや⁉」
思わず立ち上がりかけて、脇腹に激痛が走った。
「
「クラド、落ち着いて」
「落ち着けるか! 俺ら死にかけたんだぞ⁉ それをアンタ!」
「そう怒るなって。勝ったんだし、万々歳だろ?」
「だから結果論だろうがそれは!」
俺の怒りなど気にも留めず、ヴェルカはケラケラと笑う。
全くもって悪びれる様子がない。
「じゃあ、何で助けなかったんだよ」
せめてこれだけでも。そう思って問うた。
その問いに、ヴェルカは少しだけ目を細めて答えた。
「それこそ、“価値”を信じたからさ」
「価値だって?」
「アンタたちなら勝てるってね。そう賭ける価値があると思った」
本当に、調子のいい人だ。
助けないとか言っておきながら、結局最後に助けに来てくれた。
しかも、俺たちが死ぬ寸前まで見守っていたらしい。
普通なら怒鳴り散らしたいところだ。実際、かなり腹は立っている。
――なのに。
不思議と、文句だけでは終われない。
ガザルム坑道で見せた、意味不明な一撃。
飄々とした態度の奥にある、“何か”。
この人は、多分——。
そんなヴェルカが、不意に俺の左手へと視線を落とした。
「……ところでクラド。その指輪、どこで手に入れた?」
「指輪?」
言われて、自分の手を見た。
商会にいた頃、倉庫整理中に偶然見つけた古びた指輪だ。
装飾も少ない、地味な代物。なのに――。
《???:9,999,148,000G》
【価格表示】で見ても、それしか出ない。
名前も分からない。価値だけが異常に高い。
「……商会で拾ったやつですけど、何か?」
ヴェルカは酒瓶を揺らしながら、じっと指輪を見つめる。
その瞬間だった。
初めて彼女の表情から、余裕が消えた。
本当に、一瞬だけ。けれど確かに、目の色が変わった。
「……ヴェルカさん?」
「いやぁ?」
だが次の瞬間には、いつもの軽薄そうな笑みに戻っている。
誤魔化された。
自分を落ち着かせるように更に酒を入れつつ、彼女は言葉を紡いだ。
「ソイツ……もし、その指輪が“本物”なら――」
ヴェルカは夜空を見上げながら、静かに俺たちを見据えた。
「そのうち世界そのものが、ソレを奪いに来るよ」
意味が分からなかった。
世界が奪いに来る?
指輪一つで?
「……ま、アタシも詳しくは知らないんだけどね」
ヴェルカは肩を竦める。
だが、その目だけは笑っていなかった。
「だから、今の内に強くなっときな。師匠として、アンタらを守るくらいはしてやる」
軽い口調だった。
けれどその言葉には、不思議な重みがあった。
馬車が夜道を進んでいく。
その揺れの中で、俺はもう一度だけ指輪を見つめた。
鈍い銀色の表面には、見たこともない紋章が刻まれている。
まるで――何かを待ち続けているように。
巨体が大きく揺れ、そのまま石畳へ崩れ落ちた。 ゆっくりと土煙が晴れる。 焦げた胸板。 焼き潰れた右目。 額にはヴェルカの蹴り跡が深々と刻まれていた。 それでも、ベリアルは起き上がろうとはせず、ただ自分の掌を見ていた。『ぐ……。何故、だ……』 低く唸るような声が響く。『何故、我に攻撃が届いた』 その問いは俺たちではなく、自分自身に向けられているようだった。『我に奪えぬ価値はない。我の前では全てが無価値となるはず』 大きな掌――その中央に空いた風穴を見つめ、ゆっくりと握る。 触れたものの価値を奪う掌に、初めて付けられた傷なのだろう。 その姿を見て、ヴェルカが鼻で笑った。「どうやら神様ってのも、案外頭は固ェみたいだな」 神を名乗るには、随分と間抜けな顔だ――そう言わんばかりに肩を竦める。 ミリスが俺とベリアルを見比べる。「結局、どうして攻撃が当たったの?」「私にも、全く見当が付きません」 屋根から降り立ったカグヤが静かに首を振った。「私の符術は、触れられた瞬間に崩壊しました。それなのに、クラド殿の攻撃だけが通った理由は……」「そこなんだ」 俺は二人へ視線を向けながら言った。「考え方が、逆だったんだよ」「逆?」 ミリスが瞬きを繰り返す。「じゃあ逆に聞くが、お前ら、音を殴ったことはあるか?」 その横から、ヴェルカが割って入ってきた。「……え?」「光でもいい。掴んだことは?」 あまりに突飛な問いに、二人は揃って黙り込む。「そんなのできるわけ――」 言いかけたミリスの横で、カグヤが眉を寄せた。「というより、それと今回の戦いに何の関係が……」「ああ、普通なら関係ねえ」 ヴェルカはニヤリと笑う。「けど今回は、その"普通"が答えなんだよ」 俺も頷いた。「俺の能力も、ベリアルの能力も、本質は同じだ」 掌を見つめながら続ける。「触れたものの価値を扱う能力。ただ、俺は価値を変えられて、あいつは奪う。それだけの違いだ」「つまり……同じ条件でしか発動しない?」 カグヤが静かに口にする。「そういうこと」 するとミリスが、まだ納得できない様子で首を傾げた。「でもカグヤの攻撃だって、光みたいなものだったよ?」「いえ……厳密には違います
急ぎ足で競売会会場――オペラ座を出ると、露店の連なった夜市が広がっていた。 ほんの数分前まで笑い声で満ちていたはずの夜市は、もうそこにはない。 果物を抱えた商人は荷車を放り出し、家族連れは悲鳴を上げる子供の手を引いて逃げる。 行き交う人々が我先にと押し合い、倒れた誰かを踏み越えて逃げて行く。 その中心に、夜空を背負うように立つのは、三メートルを超える怪物。 ベリアルは逃げ惑う群衆など眼中にない様子で、一軒の露店を掴み上げた。 次の瞬間、その屋台は砂のように崩れ始めた。 木材も、布も、並べられていた雑貨も。 触れられた全てが色を失い、灰となって夜風へ溶けていく。『脆い』 ベリアルは掌に残った灰を見つめ、退屈そうに呟いた。『価値無き器は、触れるだけで崩れる』 言葉と同時に近くの露店を蹴散らす。 その風圧一つで、周囲のテントが舞い上がり、小さな瓦礫が飛び荒む。「皆さん、下がって!」 《硬》 カグヤが間髪入れずに札を切り、障壁を展開した。 それでも勢いがついた瓦礫は、その障壁すら突き破って襲いかかってくる。『先刻の人の子か。何をしに此処へ来た』「そんなの決まってるだろ! オマエを止めに来たんだ!」「街を壊すなんて、そんなの許さない!」『戯言を。貴様らのような無価値なデク人形に、我は倒せぬ』 ベリアルは俺たちを見下しながら、一歩踏み出す。 地面が大きく揺れ、思わず転びそうになる。『だがこの我に立ち向かう勇気、賞賛に値する。価値なき勇気だがな』「図体だけじゃなく、態度もデカいとはなァ。ハッキリ言って、私はアンタが嫌いだぜ」 ヴェルカは鼻で笑い、スカートの裾を豪快に引き裂いた。 そして先程のお返しと言わんばかりに右脚を踏み出し、ベリアルの顔を睨み上げた。「テメェにも教えてやるよ。人間サマの本気がどれくらい恐ろしいモノかをよォ!」『雑兵ほどよく吠えるものよ。まずは貴様から血祭りに上げてくれる』 巨大な拳が、ゆっくりと持ち上がる。「来るぞ!」 俺が叫ぶより早く、ベリアルの拳が大地に叩き付けられた。 轟音。 |石畳《いし
嫌な汗が背中を伝った。 アルベリオの身体に走った無数の赤い線が、鮮血となって噴き上がる。 噴き出した血飛沫がステージを赤く染め、観客席側から初めて恐怖の悲鳴が上がった。「おいおい、どうなってんだこりゃ?」 ヴェルカは目を丸くして周囲を見渡す。 誰がやったのか、アルベリオを襲撃した犯人を捜しているのだろう。 アルベリオだって、何が起きたか分からず放心している。 無理もない。 けれど俺たちには、それが何者の仕業なのか、薄らと分かりかけていた。 実際に、それを一度味わっているから。 だからこそ、恐怖が背筋をなぞる。「この現象って、まさか」 冷や汗がカグヤの頬を伝う。「なんで? ミリスが見た時、アイツは……」「いや、ミリスを疑うつもりはない。でも、この“能力”は間違いない」 そもそも、俺たちはアルベリオたちを殺すために来たワケじゃあない。 息があればそれで充分。カグヤの貨物を取り返せたらそれで良かった。 しかし、だったら何故――。「……一体これは、何の真似だ?」 アルベリオが、スーツを血に染めながら裏口を睨む。 その視線を追うように、俺たちも後ろを振り返った。「ゼロ……まさか、裏切ると言うのか!」「裏切るなんて酷い言い方は止してくれよ、会長」 裏口の前に立っていた男――ゼロは、指先でナイフを回しながらため息を吐いた。 顔はボコボコ、腕や脚に無数の痣を付けながら、しかし痛覚がないみたいに笑っている。「ぼくはずっと、この瞬間を待っていたんだよ」 言い終えると、ゼロの口が横に裂けた。 そのまま一歩、また一歩と歩み出し、すれ違い様に俺たちを振り返る。 だが、ゼロは俺たちに襲いかかるでもなく、アルベリオの前でしゃがみ込んだ。「ありがとう会長、おかげで予定通りに計画が進むよ」「ゼロ……君は一体、何者なんだ……?」 アルベリオは傷だらけの体を震わせながら、ゆっくりとゼロを見上げた。 するとゼロはにっ、と歯を見せるように唇を開いた。 笑っているのだろう。けれど、口角の筋肉が全く動いていない。「ぼくはゼロだよ。《奈落の楔》のゼロさ」 初めて聞く名だった。 ミリスとカグヤは言わずもがな。アルベリオも同じ表情を浮かべた。 誰一人として、その名に覚えがない。 ただ
「まさか……ゼロを倒したというのですか……?」 初めてだった。 アルベリオの貌から、余裕が音を立てて剥がれ落ちた。 ミリスは頬についた血を親指で拭いながら、にっこりと満面の笑みを浮かべる。「あんな奴、ミリスの敵じゃなかった」 ……笑顔で嘘を吐くな。 白かったドレスは赤く染まって、髪は煤だらけ。 両手なんて、小刻みに震えっぱなしじゃないか。 明らかに大丈夫ではない。けれど、「ハッ、強がりやがって」 その姿を見たとたん、ヴェルカが思わず吹き出した。「一体誰に似たんだか」 言いながら俺を一瞥した。 ――いや、多分アンタだと思うぞ。 口には出さず、目で言い返す。 それでも、ミリスの軽口が聞けただけで、胸の奥が少しだけ軽くなった気がする。 俺とカグヤ、ヴェルカ、そしてミリス。ようやく全員揃ったんだ。 それだけで、不思議と負ける気がしなかった。「……なるほど。これで四天鑑定は全滅ですか」 アルベリオはゆっくりと息を吐き、頭を抱えた。「悔しいですが、認めましょう。ヴェルカ、あなたの弟子は相当優秀なようですね」「今更褒めたって、お世辞でも嬉しくねえぜ」「だとしても、四天鑑定を退けた事実は受け止めざるを得ない」 非常に悔しいですがね。アルベリオはそう結んで、ニヤリと口の端を吊り上げた。 確かに俺たちは四天鑑定を倒した。 それなのに、胸は少しも晴れなかった。 むしろ、嫌な予感が背筋をなぞる。「だからこそ残念で仕方が無い。優秀なキミたちが、こんな悪女に利用されていることが」「悪女……?」 ヴェルカが? 利用している?「バカを言うな! 何を証拠にそんなことを!」「証拠? それは既にキミたちも知っているはずでしょう?」 アルベリオは露骨に大きなため息を吐いて、憐れんだ目を向けてきた。 けれど、その目に射貫かれて、ヴェルカとのこれまでの出来事が脳裏を駆け巡った。 商会で出会った日。 ガザルム坑道で、本当に死にかけたこと。 理由も聞かされないまま、この競売会へ連れて来られたこと。 ……言われてみれば。 俺たちは一度も、ヴェルカの本当の目的を聞いていない。「…………」 信じたい。けれど、反論できない。
ガベルが競売台に突き刺さった瞬間、それまで怒号と歓声で揺れていた会場が、水を打ったように静まり返った。 何百という視線が、一斉に俺たちへ突き刺さる。 ……やっちまった。 頭より先に身体が動いた結果がこれだ。 頬が熱い。 今さら「人違いでした」なんて顔をして帰れたら、どれだけ楽だろう。 そんな情けない考えが頭を過る。 けれど、俺の背中にはミリスがいる。 傷だらけになりながら、それでも笑って俺たちを送り出してくれた少女がいる。 あの笑顔を見た後で、アルベリオに背中を向けるなんて、できるはずがなかった。「……残念です」 アルベリオは本当に残念そうに息を吐いた。 怒っているわけじゃない。 むしろ、「どうして分からないんですか」とでも言いたげな顔だった。 その穏やかさが、余計に腹立たしい。「膝を撃ち抜けば、十分だと思っていたのですがねえ」 白い手袋を嵌めた指が、静かに俺を指す。「痛みは優秀な教師です。一度教えれば、大抵の子供は二度と同じ失敗を繰り返さない」 まるで当たり前の真理でも説くような口調だった。 その声音には、人を撃った罪悪感なんて欠片もない。「ですが、どうやら私も買い被っていたようだ」 黄金色の瞳が、ゆっくりと細くなる。「ヴェルカの弟子が、ここまで聞き分けの悪い子だったとは」「……言ってくれるな」 膝の痛みより先に、胸の奥がじりじりと熱を帯びていく。 思わず言い返しかけた、その時だった。「違う。それは教育なんかじゃない」 カグヤの声は震えていた。 それでも彼女は一歩も退かず、アルベリオを真っ直ぐ見据えて言い放った。「ただの脅しだ!」「結果が同じなら、過程はどうだっていいでしょう?」 アルベリオは眉一つ動かさない。 牧師のような穏やかさで、ゆっくりと言葉を重ねていく。「商売だって同じですよ。利益を得るためなら、手段は何だっていい」 その笑みが、僅かに深まる。「たとえ命を奪うことになったとしても、ね」「腐ってやがる……!」 思わず吐き捨てた俺を見ても、アルベリオは肩を竦めるだけだった。「だから、残念ですが愚かな君にはここで死んでいただきます」 白い手袋を|嵌
人間という生き物は、案外しぶとい。 それは賞賛ではなく、どちらかと言えば呆れに近い。 それがラグナの抱いた感想だった。 骨が折れようが、血が流れようが、肺が焼け付こうが、それでも生きることを諦めない。 否、諦める暇すらないだけなのかもしれない。 少なくとも今のミリスは、その典型だった。 ゼロとの戦いを終えた彼女は、自力で立っていることすら難しい状態だった。 にもかかわらず、それでも前へ進こうとしていた。 だがその度に身体が揺れ、今にも倒れそうになる。「無理しないで」 見兼ねたラグナが肩を貸す。 ミリスは少しだけ驚いた顔をした後、小さく笑った。「ラグナ、意外と優しい?」「私好みの可愛い子にだけはね」 呆れたように返しながらも、ラグナは肩を竦める。 優しい。 そんな言葉で片付けられるほど綺麗な理由ではない。 ただ少しだけ。 本当に少しだけ。 あの無表情な暗殺者が追い詰められていく様子が愉快だっただけである。 だから助けた。 それだけだ。 ――たぶん。 地下倉庫の崩れた通路を歩きながら、ミリスはぽつりと呟いた。「ねえ、ラグナ」「なあに?」「どうして助けてくれたの?」 その問いに、ラグナは一瞬だけ空を見上げる。 正確には天井だった。 けれど今は、空と呼んでも間違いではない気がした。「さあ、知ーらない。私は何もしてないわよ~?」 そう答えた後で、ラグナは少しだけ口元を緩めた。「でもそうね。きっと、勝利の女神様が微笑んでくれたんじゃない?」 だが数秒考え込み、「……いいえ」 と、自分で否定する。「今回ばかりは、微笑むどころか大爆笑してたみたいだけど」 その言葉に、ミリスは意味が分からないという顔をした。 勝負事というのは、公平であると同時に、もっとも不公平なものである。 しかし、だからこそ面白いとラグナは考える。 そして今回の勝負は、きっと女神様のお気に入りだったのだろうと、ミリスはそう結論付けた。 *** 一方その頃。 地下深くに築かれたオペラ座 《ファントム》では、既に夜天競売会の前哨戦が始まっていた。 幾重にも連なる赤い客席、天井を埋め尽くす豪奢なシャンデリア、舞台を







